隠密偵察−平成12年10月−

平成12年夏から秋の勉強量は尋常ではなかった。なにしろ勉強へのインセンティブが、司法書士試験の受験なんぞとは大違いだ。

芦葉に対する損害賠償請求訴訟を起こす。さしあたり訴訟提起に必要な労働基準法・雇用保険法の知識の蓄積に狂奔していた。たぶん、自分が無知だったことの反動なのだろう。それでも芦葉事務所のような零細事務所でもぼくが雇用保険法では一般被保険者になると知ったときには、目からウロコがごっそり落ちた。と同時に、あらためて怒りがこみ上げてきた。その半分は、なにも知らずなにもできなかった自分に。

事案として難しいのはわかっている。でもこれは、散々おちょくられて体よく放り出された昔の自分が、これから人として真っ当に生きていくためのたたかいだ。

砂上の方もむちゃくちゃであることは、労働基準法のフィルタをかけて自分の就業状況を再検討した際に、これまた明らかだった。残業手当1000円、とはちゃんちゃらおかしい。でもこれはあまりにもはっきりしているから、ひょっとしたら訴訟にならずになんとかできるか?

平成12年秋に、砂上開発がある街の職安におもむいたのはそんな理由からだ。この時点で芦葉への訴状は、当時の住所最寄りの津島簡易裁判所に提出を終えており、期日呼び出しを待っている状態だった。だから砂上のほうも紛糾するようなら、芦葉との訴訟がおわるか賃金債権の短期消滅時効がくる来年秋までほうっておくしかない。はじめての本人訴訟を、かけもちしたいとは思わない。

持っていったのは、自分が昨年職安でもらった砂上開発の求人公開カード。手近な窓口の人に声をかける。

「職安からの紹介で入った会社だったんですが、残業手当がおかしいんです」

奥から出てきた人の肩書きは、『統括職業指導官』と言うらしい。

この求人公開カードには残業手当 時間1250円と書いてあること、でも実際1000円しかもらっていないこと、採用の時に労働条件を明らかにするような書類はもらってないことなどを話す。

しかしこの人、最初に思いっきりはずした一発を放ってくれた。おもむろに電卓を出しながら

「そうするとあなたの月給が18万円ですよねえ。で一ヶ月30日、一日8時間だから…1時間あたり750円、これの割増賃金だと938円で…」

思わず失神しそうになった。どこのバカが一ヶ月に30日働くもんかよ!そんな悪罵を厳重にオブラートに包んで言ってみる。

「でも、それですと毎月30日働くことにして計算していることになりますよねぇ。」

「あ、そうか。それにまあ、この求人公開カードはたしかに職安で出したものみたいですからねぇ」奥へ行って、砂上開発の現時点での求人票を持ってきてくれた。

「丁度いま、また求人がでてたんですけど、あとパートの方でもね。でもいまは残業手当が1000円に訂正されてるんですよ…直したんだな」OCR用のシートをひっくり返して透かすようにする。

「そのシートは求人条件が変わるつど、消しゴムで消して使うんです?そうするとぼくが持っているような、昔の求人の求人公開カードみたいなのはもうないんですか?」

「紹介して何かあったら困るから直近のは取っておくけれど、それ以外のはとってないんですよ」

参った。とりあえず現状の求人票をコピーしてもらっておく。

「毎月の平均労働日数は23日だから、これを使うと?」でも1日8時間、って計算するんだよなこの人。「ああ、これだと1時間あたり978円、割り増しをかけて1223円か、この1250円、てのはこれをみて決めたのかな。なんにしてもこの1000円じゃ、だめか…」おもむろに電話を取る。「…あぁ、職安です。お世話になります。今出ている求人の件でね、砂上さんみえます?」

電話の向こうに、奴がいる。思わず心臓が高鳴った。

「どうも、職安ですが…今だされている求人なんですけどね。正社員の方です。この残業手当なんですが、労働基準法上これだと少なすぎるんですよ…ですからまずこれを直されるか、これで払っているのであれば、追給してあげないと。…」

「あ、(時給の表示を)消されるのでも。ええ、そうしに来てください…あと、パートで求人出されてますけどね。これ1日の労働時間が9時から5時になってるでしょう?これだとパートじゃないんですよ。フルタイムになってしまう…3時まで、とかなら大丈夫です。ええ。ではそれでお願いします」

「まずこの1000円というのは消すか直すかするようですよ。あと、足りなければさかのぼって追給するように言っておきますので、明日砂上さんの方の話を聞いて、お電話します」

どうも職安というのはワケワカランところだ。結局次の日の電話では「どうもこちらも勉強不足でした…おっしゃるとおり計算すると、確かに残業手当が時間1000円では違法なんで、在職していた人にも追給するように言っておきました」

なんとなんと。追給だそうな。

しかしそこはすれっからしの砂上事務所。『追給』はなかった。
砂上事務所では役所なんざ駆け引きと欺瞞の対象でしかないことは在職中に痛感させられていたけれど。

多分こいつは任意の協力が必要な手続ではどうもならない。幸いにして平成12年9月支給ぶんの賃金債権が時効消滅するまでにはまだ1年あるから、芦葉との訴訟のすすみ具合を見てなんとかしよう。少なくとも敵に支払いの意志がないことと、今回その確認が「ぼく」の関与を隠して行うことができたのは収穫だった。これでまだ、奇襲攻撃の機会は残っている。

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このコンテンツは、ブラックな零細企業の残業代不払いと本人訴訟の体験談です

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Last Updated :2013-04-08  Copyright © 2013 Shintaro Suzuki Scrivener of Law. All Rights Reserved.