同業他社への転職・開業
質問
私はいまの会社に嫌気がさして転職を考えていたところ、数ヶ月前に独立した先輩から自分の会社にこないかと誘われました。先輩の会社といまの会社はおなじ業務をしており、地理的には離れています。
いまの会社の就業規則に、退職後5年は同業他社への転職そのほか会社の不利益になる行為をしない、という規定がありますが、これは私に適用があるのでしょうか。
建前
これは一般的に、競業避止義務といわれる問題です。
まず在職中に労働者が同業他社で(アルバイト等で)働くことは、企業秘密が漏洩したり顧客が競合するなど使用者の利益を損なうおそれがあるので、そのようなおそれのない特別の事情のある場合を除き、不正な競業によって使用者の正当な利益を侵害しない競業避止義務を労働契約上の付随的義務として負うと考えられます(エーブライ事件・東京地判平15.4.25)。なお、一般的に正社員のアルバイトが禁じられているのは、所定労働時間外にはしっかり休養して次の就労に備えてほしいという意味合いが強いものです。事業で働く人で、現行法で明示的に競業避止義務が定められているのは、会社の役員や支配人だけです。ただし、法律ではなく個別の契約あるいは就業規則で適切に守秘義務を定めることは差し支えありません。
退職後はどうでしょう。在職中の経験を生かして似た業種につく、ということはよくあることですし、これをいちいち制約していたら転職などできません。
労働者がもっている職業選択の自由、ひいては適切な職業について生活を安定させる権利を制約させないことと事業活動で保護される秘密・競業されない権利とのバランスを考慮して退職後の労働者に対する競業避止義務が定められる必要があります。この際に考慮されるのは
在職中の労働者の立場や地位(重要な地位にいた場合ほど制約が強い)
退職時の使用者に保護すべき利益があるか(原則的には自由競争の世の中なのだから、みだりに同業での開業を制限すべきでない)
制限する職種や期間・場所の範囲が適切か(度を超すと嫌がらせになるが、地域密着型の商売でその地域で競争しない、という合意は無効とはいえない)
競業を制限することに対する、代償はあるか(退職金をたくさんもらう代わりに、競業避止契約を締結する、など)
があります。かんたんにいうと、普通の平社員が単に転職するだけである場合には、秘密保持義務はあっても競業避止義務を負うようにはなっていません。
アートネイチャー事件(東京地判平17.2.23)は、競業避止義務の範囲について、従業員の競業行為を制約する合理性の範囲を確定するにあたっては、従業員が従事していた業務内容、使用者が保有している技術上および営業上の情報の性質、使用者の従業員に対する処遇、代償措置の程度等、諸般の事情を考慮して判断されるべきであるとし、従業員が就業中に得た、ごく一般的な業務に関する知識・経験・技能を用いることによってなされる業務については、競業避止義務の対象とはならないとして、顧客名簿使用による競業行為を理由とする差止命令、損害賠償請求が棄却されています。
損害賠償請求は、競業が前使用者に重大な損害を与えるかたちでなされた場合(例えば、顧客を積極的にうばったり、従業員の大量引き抜きなど)には、競業禁止の特約に基づいて認められ(東京学習協力会事件・東京地判平2.4.17)、また前使用者の営業権を侵害する 不法行為としても認められています(東日本自動車部品事件・東京地判昭51.12.22)。
これらの事実がある場合には退職金も減額されることがあり、その旨の条項がある退職金規程もみかけますが、退職金は在職中の賃金の後払いの一種であることから、最終的には労働者側の請求が認められることが多いと考えます。
本音 退職金を受け取ってから開業等なさると、対処が楽なんですが…
競業避止義務をめぐる争いは、しばしば『労働者が競業避止義務に違反して転職あるいは開業したから、使用者としては退職金(または、最終月の給料)を支払わない』というかたちで現れてきます。
見方をかえれば、使用者は未払いの給料や退職金を質にとって労働者に少々無体な要求をつきつけることが可能になるわけですね。こうされてしまうと、労働者側は法的措置を視野において対抗するしかなくなります。
そうすると、使用者側が強気でいられるのは退職金ほか最後の賃金を支払うまで、ということになりますね。労働者が退職後直ちに開業したり、退職前から同業他社に転職すると企業内で言いふらしているような場合には、退職後最後に支払われる賃金も、競業避止義務に違反したから支払わないとする主張もありえます。
結局のところ、使用者側から賃金・退職金を残らず受け取ったあとであれば労働者側は建前どおりの法的主張をしていればそれでよいことになります。もちろん、使用者側が労働者に既に支払った退職金を返還するよう求める訴訟を起こすことも不可能ではありませんが、一般的にはそれで効果的に勝てるわけではないため、こうした訴訟が実際に起こされることはあまりありません。せいぜい弁護士をつけて内容証明で労働者側に対して、既払い退職金の返還を求めてくる程度です。もちろん、そうした脅しに屈して退職金を自発的に返還する必要などなく、建前論で回答して使用者側から訴訟を起こしてくるまで待っていればよいだけの話しです。
したがって、法的な正当性というよりは退職金や最後の給料の支払いをめぐる駆け引きとして競業避止義務の主張が出てくることに注意するべきだというのがここでの結論です。
もちろん競業避止義務を定める合意そのものは、範囲や期間を明らかに示しておりそれに合理性があれば有効なこともある、ということも忘れてはいけません。